東京オリンピックの思い出

じいじ

女子バレーボールは、東京大会で初めて正式競技として開催されましたが、日本代表チームは「東洋の魔女」と呼ばれた日紡貝塚の選手を主に編成されましたので、代表チームも「東洋の魔女」と呼ばれました。そして決勝戦で全勝同士で激突したソビエト連邦代表をみごと破り、金メダルを獲得しました。当時も6人制でしたが、サーブ権を持つチームが得点できるルールでしたので、なかなか決着がつかず、手に汗握る大熱戦の末に勝利を得ることができたのです。

柔道も東京で初めて正式種目として開催されました。男子のみで行われ、4階級制でした。軽量級・中量級・重量級は期待通りに日本代表が勝利しまして、最後に無差別級が行われました。決勝戦は日本代表の神永選手、相手はオランダ代表のヘーシンク選手。熱闘の末、神永選手は惜しくも敗れましたが、勝利の瞬間に畳に駆け上ろうとしたオランダチームの関係者を手で静止して、静粛さを保ったヘーシンク選手のスポーツマンシップが今でも目に焼き付いています。

陸上競技の花ともいえるマラソンが、国立競技場をスタートとゴール、甲州街道を舞台に行われました。沿道はどこも熱心な観客で満員でした。なんといっても注目は前回のローマで優勝したエチオピア代表のアベベ選手です。ローマでは持ち込んだ履き慣れた靴が故障し、急遽新しい靴を用意できなくて、裸足で走って優勝しました。そのため「裸足のアベベ」として一躍世界的に有名になりました。しかし東京ではきちんと靴を履いていました。途中で先頭に立つと、そのまま独走で国立競技場に駆け込み、マラソン2連覇を成し遂げたのです。

一方日本代表の一人は円谷幸吉選手でした。持病の腰痛を抱えながらもそれを克服し、2位で国立に戻りました。結果は3位になりましたが、実況したアナウンサーの「円谷頑張れ、円谷頑張れ」の連呼は忘れられません。その後も足腰の痛みに耐えながらも、メキシコシティ大会に出場すべく猛練習に励みましたが、同大会が行われる1968年の1月に、足腰の痛み、期待への重圧に耐えかねたか、手首を剃刀で切って自殺を遂げられました。27歳の若さでした。家族に残された手紙があります。

「父上様母上様三日とろろ美味しゅうございました。(そのあと、兄弟姉妹・甥姪に宛てた言葉が続く)、幸吉はもうすっかり疲れ切ってしまって走れません。幸吉は父母上様の側で暮らしとうございました」、

今でも思い出すたびに涙が出ます。

これらの他にも様々の競技がありましたが、別の機会にとっておきます。「映画って本当にいいもんですね」という有名言葉がありますが、「スポーツって本当にいいもんですね」と言って終りにします。

コメント

タイトルとURLをコピーしました