書くことは自分を見つめ直すこと

五日前のこと、私は久方ぶりにブログを更新した。よくよく調べてみたら、前回の記事をアップしたのはもう1年前だった。仕事の忙しさにかまけて、ブログの更新という目標は、インスタの流し見よりも優先順位の低いものとなっていた。サーバー料金のお知らせをメールで受け取るたびに、ああ、またお金を無駄にしてしまったと思うんだけど、それならいっそ、ブログなんてやめてしまえばいいのにね。でも、せっかく自分でいちから作ったホームページだし、いつかまた再開するかもしれないし、放置しながらも頭の片隅にはいつもブログのことが存在していた。

五日前、私が久方ぶりにブログを更新することにしたのは、一つは今の時期(3月末から4月の上旬)は仕事の閑散期で、長期休暇のような時間を過ごしているうちに、「そうだ、ブログやろう」って思いついたからで、それこそ1年ぶりぐらいにプライベートのノートパソコンを開いた。でも、何を書いたらいいのか、何を書きたいのか。まず、一番最初にこの壁にぶち当たってしまい、そもそも1年前にブログを更新しなくなったのも、ほとんどがこの壁にぶち当たったのが理由なんだけれども、何を書いたらいいのか分からないうえに、書いてもほとんど誰の目にもつくわけでもなくて、最初は「よし、毎日記事を更新するぜ」って意気込んで始めたはずなのに、更新を続けるモチベーションもだんだんと失っていって、結局は挫折してしまったんだったよね。

今度こそは続けられるようにしたい。でも、やっぱり何をどうやって書いたらいいのか悩んじゃって。それで、まず始めに私が手をつけたのは、文章を書くための本を探すことだった。探してみると結構あるんだけど、結構あるからこそどれを選べばいいのか分からない。また思考の迷路に陥った私。こういうよく言えば慎重(すぎる)、悪く言えば優柔不断な自分の性格にイライラしてしまうこともあるんだけど、せっかく読むからにはためになるいい本を選びたい。でも、電子書籍で本を選ぶ時って、口コミやサンプルは読めても内容を吟味することができないから、当たって砕けろで選ぶしかない。それで思い切って選んだのが、作家の高橋源一郎さんが書かれた、『「書く」ってどんなこと?』だった。

こちらの本は、1から4時間目までの授業に分けるというスタイルで構成されているんだけど、書くための技術というよりは、まさに私のような書けないことの壁にぶち当たった人のために、書くっていう行為がどんなものなのかを高橋先生の体験を交えながら書かれていて、「なるほど、私が書けないのはこのためだったのか!」って、今の私にはまさしく読むべき1冊。本を読み終え、高橋先生に心から感謝しつつ、すぐさまパソコンのワードを開いたのだった。

ちょっと話はそれるけど、これは久方ぶりにブログを更新することにした理由の二つ目なんだけれど、私にはどうしても言いたいことが頭の中にあって。でも、それをどう表現したらいいのか分からないから、とりあえずブログでつづってみようと思ったの。たとえ誰の目にも触れなくても、自分が後々になって、あの時あんなこと考えてたんだなって読み返せるように。それで書いたのが五日前の「共同親権」についての日記だった。

パソコンに向かい、頭の中にある共同親権についての自分の意見を書こうとキーボードに手を置く。高橋先生のありがたい本も読んだことだし、「よし、スラスラ書いてやるぜ」って意気込みとは裏腹に、全くもって手が進まない。自分の言いたいことは頭の中にある。元兄嫁と甥っ子たちへの思い。ようやくひねり出しのたが、「2026年4月1日。民法の改正によって、離婚後の父母が双方で親権を持つ、「共同親権」の制度がスタートしました。」という書き出しの一文。高橋先生の教えに従えば、ここから先は言葉が勝手にあふれでてくるように、頭の中にある思いをキーボードで打ち込めるはずなのに、どうやっても上手な文章が出てこない。そして、ようやく考えに考えを重ねて書いたのが、たった848文字の日記だった。そして、それきりまた五日間も更新がストップしている。

「また挫折したのね。」

私の中の私がそう呟いた。私だって挫折するつもりなんて、1ミリも思ってなかったよ。でもね、そもそもこの日記でさえ満足いくものじゃないうえに、続きが全く浮かばないの。言いたいことはあるの。でも、それをどうやって言葉にしたらいいのか、考えれば考えるほど分からなくなってしまう。だから、私はまた別の本を読むことにした。佐々木敦さんの、『「書くこと」の哲学』っていう本。

佐々木先生の本を読んで、書けない症候群に陥っている最大の理由が分かった気がした。そう、私はいつも上手に書くことばかりに目を向けて、自分の心の中の思いすら、整理してきちんとした言葉にしなきゃって思い込んでいた。それは何でかって考えてみると、小中高大って国語を勉強してきて、文章を書く時に一番大切なことは、文法や語法、構成を教科書どおりに正しく書いて、読み手にとって分かりやすいものを書くことだと思い込まされてきたのね。特に大学の卒論を書く時に言われた、全く知識がない人が読んだとしても、ちゃんと理解できなきゃいけないという担当の教授の言葉を心に刻んで、会社勤めをしていた時も簡潔に分かりやすく書くことを心掛けてきた。

でも、高橋先生も佐々木先生もおっしゃっているのであろうことは、これはあくまで私の理解だけど、書くことに挫折しているのはまさにこういう考え方をしている人であって、文章を上手に書くことにばかり集中してしまい、結局は自分の頭の中、心の中にある言葉をストレートに表現できないことが、書くことの壁にぶち当たった人たちに共通しているんじゃないかなと。そもそも完ぺきな文章なんてなくて、正解なんてものもこの世には存在しない。顔も身長も体格も人それぞれ違うように、文章にも人それぞれの個性があっていい。それはなぜかというと、文それ自体が自分の考えそのものであって、自分の考えは自分という人しか持っていないからなのだ。

書くことは結局は自分の考えを言葉としてつむいでいくこと。だから、誰にでも分かるように上手に書こうとすることは、つまりは自分の頭の中・心の中にある本当に思っていること、言いたいことを、加工修正して文章にしていることになるんだよ。自分の頭の中にある考えだとしても、上手な文章にしようとした途端に真実でなくなっちゃうの。それで、まあどうにかこうにか文章を書きあげてみるけど、読むとどうもしっくりこない。自分の言いたいことがちゃんと表現できてなくて、なんかつまらないっていうか、なんか的外れな感じになっちゃってる。これが書けない迷路に陥ってしまう、最大の理由なんじゃないかなって思う。じゃあ、ありのままを書けばいいだけじゃないって思うかもしれないけど、このありのままを文章にするのってすごく難しいんだよね。

思えば、私は子供の頃から言いたいことをぐっと飲みこんで、結局言わなくてよかったって思うことがよくあった。言いたいことを我慢して成功体験を積むことで、余分なことは言わないに限るということを習得してしまったのだ。学生時代の友人に、言いたいことをストレートに伝えて、痛快で面白い言葉を繰り出すなって思う人がいるけど、そういう人ってえてして地雷もたくさん踏んじゃうんだよね。特に女の世界に生きてると、こういう地雷を踏んじゃう人って上手に人と関係を築くことができなくて、ちょっと浮いた存在になってしまうことがあったりする。

一方、人間関係を重要視するあまり、私は今まで上手な言葉選びばかりを気にかけて、自分の考えまで修正を加えていたのかもしれない。ありのままを書いて私の頭の中を素直にさらけだすことで、この人こんなこと思ってるんだとか、変な人だなって思われることが怖かったのかな。でも、同時にそれが書けない壁になっちゃっていて、書くことを学び直すことによって、そんなことに気づかされた今日この頃。

それで、じゃあ実際に私の頭の中を占拠していた元兄嫁と甥っ子たちについて、本当は何を言いたかったんだろうかって考えてみる。以前の私は、元兄嫁に親権が認められたことについて、頭の中にある考えをどうのこうのありのまま言うと、世の中のお母さんたちからこう言われることに恐れていたんだと思う。「あなた、産んでませんよね」って。はい、たしかに私は産んでいません。妊娠の苦労も出産の苦労も知りません。だからこそ、彼女に対してすごく遠慮していた。そして、あんなかけがえのない存在をこの世界に登場させてくれたことに対して、すごく感謝もしていた。

飲んだくれてばかりいた過去の私。そんな私の生き様を変えてくれた甥っ子たち。本当に本当にかわいくて愛しい存在。それが、兄の別居・離婚によって突然会えなくなってしまった。悲しみに明け暮れたこともあったけど、心を入れ替えて前向きに生きることを選んだ。それで、2年ぶりに再会することができて、そしてまた会えなくなって、そんな気持ちをどうにか言葉で表現したいと思っていたんだけど、なかなかできずにいた。少し前まで私の頭の中にあったのは、元兄嫁や家庭裁判所の調査官に対する怒り。嘘で塗り固められた調査官の調書、こんなのがまかり通るなんて、日本の裁判所なんて地獄に落ちろ。そんな考えが頭を支配していた。でも、実際に文章にしようとするとうまく表現できずにいた。

じゃあ、私が本当に言いたいことはなに?どうやってそれを表現したらいいの?そうやって思いを巡らせていると、ようやく分かったんだよね。私は別に元兄嫁や裁判所の調査官への怒りを世間に伝えたいわけじゃなくて、本当に言いたかったのは、ないがしろにされている甥っ子たちの気持ちについてだったんだって。離婚の調停においても、親権者の変更においても、子供たちの意見は全く反映されることがない。子供たちが15歳ぐらいであれば、裁判所も子供たちの意見を考慮するらしいんだけど、未就学児や小学生の意見は全く尊重されることがない。小学生だよ?もう自分の意見ははっきり言える年ごろだよ?

今回、親権者変更の申し立てをしたんだけど、それだって子供たちがママのところには行きたくないって言ったからだし、子供たちが行きたくないって言うのにはちゃんとした理由がある。そもそも、うちの甥っ子たちは赤ちゃんの時から母親のことが好きじゃなかったし、下の子なんて1歳ぐらいの時から母親のことをずっと「ふわ」って呼んでて、どうして「ふわ」なんて呼び名を1歳児が勝手につけたのかは誰にも分からないんだけど、別居する直前には我が家に来ると、「ふわ、いらない」って自分の家に帰ることを頑なに拒否してた。まあ、この話は今はこれぐらいにしておくけど、離婚してもなおちゃんと働こうとしないで、子供たちのために生き様を変えることをしない彼女。そして、そんな彼女に親権を認め続ける裁判所。子供たちの声はどこにも届かないのですか?親が離婚した子供たちの人権は、こんなにもないがしろにされていいものなのですか?

大切に大切に愛情を注いできた甥っ子たち。私を変えてくれた大好きな甥っ子たち。そんな甥っ子たちの人生を踏みにじられているこの現実、私が書きたかったのはこのことだったんだと思う。書くことを考えてみたことで、自分の表現したかったことにようやくたどり着くことができた。誰に、どこに働きかければいいかも分からない。でも、自分の胸の内にしまっておくだけにはしたくない。だから、まずは日記にしたためることにしたよ。あなたたちの人生が希望にあふれていることを願ってます。

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